プロフィール

写真:武藤一彦氏

武藤一彦(むとう・かずひこ)

ゴルフジャーナリストとして新聞、テレビ解説で活躍。2005年から夏泊ゴルフリンクス理事。2017年理事長就任。他に日本プロゴルフ協会理事、世界ゴルフ殿堂選考委員などを務める。

1964年報知新聞社に入社。ゴルフは国内ツアーはじめ全英オープンなど世界メジャーを取材。スポーツジャーナリストとしてボストンマラソン、プロボクシングの世界タイトル戦なども取材した。

中でも全英オープンゴルフは1977年、スコットランド・ターンベリーのワトソン・ニクラウスの"世紀の対決"以来、数々の名勝負を観戦。リンクスコースへの強い思い入れと造詣で知られる。
1939年生まれ、東京出身。立大時代はゴルフ部。

2013年1月 アーカイブ

佐々木久行逝く

世界一チャージした男 佐々木久行の思い出
―95年、夏泊ゴルフリンクスが生んだ日本プロチャンピオン死す

写真:佐々木久行氏 あの勇姿を忘れない。180センチの長身から繰り出す目の覚めるようなショット。1995年、夏泊ゴルフリンクスで行われた日本プロ選手権。その最終日のイン10番でイーグルをとった後、15番ホールでもイーグルを奪うとハーフ29、夢の63をマーク、大逆転優勝した。興奮冷めやらぬクラブハウスのインタビューではこんなことを言った。
 「29は今季これで3回目だ。ゴルフはいつもいいスコアを出すものだとやっているから驚かない。満足。本当に良いゴルフができ優勝できみんなに喜んでもらったことがうれしい」これぞプロフェッショナル、その時、わたしは心底、身内が震えた。嬉しかったのだ。

 プロゴルファー佐々木久行さん、夏泊のヒーロー、がなくなった。クールでたくましく、黒髪をオールバックにかっこよく貴公子と呼ばれた。正月1月3日、滞在先のタイで心不全に襲われ急死、48歳だった。遺体は群馬の自宅に帰り13日、葬儀が営まれ多くのファンが悔やみ、悼(いた)んだ。

○タイガー?遼?そんなものじゃない、攻撃ゴルフのヒーローだ

写真:95年表彰式の様子1

 攻撃的ゴルフというと私の中では佐々木久行だ。ツアーを追う長いゴルフ記者生活は世界中に及んだが、佐々木ほど攻める男を見たことがない。パーマー?デーリー?タイガー?それとも石川遼?そんなもんじゃない。攻撃的プレーヤーはあれど、時代や状況と併せ、さらには思い入れという個人的感情を加味させていただくと、私の中では断然、佐々木なのだ。
 95年の日本プロの最終日、5打差の4番手から出た佐々木は、アウトを2バーディーで折り返すと10番パー5を2オンさせるイーグルが口火となった。打ち上げの15番。真っ向強風の夏泊名物が吹きつける中、フェアウエー右サイド、絶好のポジションからショートアイアンで打ったボールはグリーン右に落ち左下がりのピンへ大きく放物線を描く。“ほう、あんなに転がるのか”とみていると、10メートル、15メートルと数える間もなくボールが突如、消えたではないか。かちーん、と乾いた音が聞こえたような気がするが、錯覚か。だが、白い放物線が消えた先はカップだったのだ。大逆転のイーグル、インだけで2イーグル、3バーディーの29、トータル63。 
 以来、すごいことをやってのける代名詞となった。

○タクシー代25万円、試合に出たくて深夜の特急便

 こんなこともある。まだ駆け出しのころ、ウエイティングで出番を待っていた広島での試合。、“空き”が出ずあきらめて帰京、自宅に着くと出場できることがわかった。あきらめてコースを離れたあと欠場者が出る。よくあるトーナメントのドタバタだ。佐々木は迷わず出場を決めると、タクシーを呼ぶとそのまま試合場に駆けつけた。これもよくある話。
 しかし、そのトーナメントは広島での開催(大会名は忘れたが)、めっぽう遠く試合は翌日であと10数時間で開幕する。佐々木はタクシーをチャーターすると東京から広島まで一気に、高速道を飛ばしに飛ばした。深夜、新幹線も航空便も運行していなかったのだ。試合には何とか間に合った。そしてこれにはオチがあるタクシー代が20万円弱かかっている。「それしか方法がなかった。試合に出られる。チャンスは逃せないという一心だった」-その時の佐々木の成績は記憶にない。しかし、それほどまでしても試合に出たいというプロゴルファーの性(さが)を見た驚き。と同時に佐々木という男の決断、潔さに凄みを感じた。“この男、何か持ってるな”というアレ、である。そう思ってみる佐々木は、確かに他人と違って驚かせ続けた。
 山梨のダイワインターナショナル(90年代始めに3年間開催)の最終日、最終ホールを2打リードで迎えながらパー5の2打目を2オン狙い、池に2度も入れ優勝を逃したことがある。
 池を避けレイアップしてパーで上がることは佐々木にとってなんでもなかったが、しなかった。私はその攻略性を無謀、と決めつけ記事を書いた。「優勝を逃したのではなく佐々木は捨ててしまった」と批判する内容だった。
 その後、佐々木と会った時、その話になった。すると「あの状況がまた来たら?ぼくはやっぱり同じように攻めるだろう。そういうゴルファー、それが生き方だから」と笑った。

写真:95年表彰式の様子2

○ワールド杯でデービス・ラブとプレーオフの快挙

 1986年から下部のチャレンジツアー参戦、93年、ツアーシードを獲得すると94年の関東オープンに勝ち、初出場のゴルフ日本シリーズの最終日、7打差3位から66の大まくりで尾崎直道を大逆転、その攻撃的なゴルフを一気に開花させる。ツアー5勝は静岡オープン(97年)を除きすべて公式戦。メジャーに強い、すなわち名誉のかかった試合への特別の思いは、攻撃ゴルフを引き出しめっぽう強かった。強い思いが大勝負で力を発揮するエネルギーとなる事を眞から理解し実践する勝負師だった。私の直感は当たってよしよし,よくやってるぞ、とうれしかった。
 夏泊の日本プロでの優勝で10年シードを獲得した95年は、ワールドカップ(中国)で初日10アンダー、62で個人戦トップに立つと最終日21アンダーで全米プロチャンピオンのデービス・ラブ3世と並びプレーオフ、惜しくも敗れたが、その健闘は絶賛を浴びた。“何かやる男”の面目躍如だった。

 翌96年は米ツアーに年間通して挑戦したが、左手首の腱しょう炎を発症、故障は手術を受ける重症となり生涯、佐々木から離れなかった。
 90年代後半から2000年初頭まで10年に満たない佐々木のツアー人生。それは短距離ランナーのはげしくも華やかな花火を思わせた。48歳、シニア入りをあと2年後にひかえて、米シニア、「チャンピオンツアー」参戦を目指して頑張っていると聞いた。
 実はその事を聞いた時、思い出の夏泊リンクスにぜひ来てもらい、みんなで応援しよう、とひそかに計画していた。2014年は夏泊で日本プロが開催されて20年、その年の暮れには佐々木は50歳を迎えるはずだった。大会を振り返りその偉業を称え、米シニアツアーでの優勝に弾みをつけよう。そんな想いである。だが、間に合わなかった。
 佐々木の無念は、夏泊

2013年1月22日

▲このページのトップへ